渡辺祐策翁
渡辺祐策翁
渡辺祐策氏は、29歳で宇部村会議員に当選、1895年(明治28年)に宇部村助役に就任しています。渡辺翁の最大の功績は、石炭産業を興して宇部市を発展に導いたことで、村から一躍市制(1921年(大正10年))を敷くきっかけをつくりました。
1897年(明治30年)、宇部興産の前身にあたる沖ノ山炭鉱を創業、以後、宇部鉄工所、宇部紡績、宇部セメント、宇部窒素工業、宇部電気鉄道、新沖ノ山炭鉱の6社をつくり、文字通り地域繁栄の立役者といえます。これらの会社のうち4社が合併し宇部興産となりました。
渡辺翁の卓抜した先見性は、「掘りつくす運命にある石炭からいずれ無限の工業に移行する」との理念に基づき、工業用地の造成、港湾の整備等、社会資本の充実に力を注いだことに見ることができます。
渡辺翁記念会館建設計画
1934年7月渡辺翁は71歳で死去。翁の関連した7社で、渡辺翁記念事業委員会が組織され、遺徳を顕彰するにふさわしい記念事業の検討が始まりました。検討の結果、1934年12月に市民会館の建設とその周囲を公園にして市へ寄贈することとなりました。当時市では、公会堂の建設計画に目途が立っておらず、時宜を得た会館の建設計画となりました。
建築家 村野藤吾
昭和の建築史の礎を築いた巨匠
折衷様式建築の修練を積み,近代的な表現技法と,伝統的な建築素材のもつ濃やかな情感を体験として探り当て、古典に近代感覚を自由に盛り込んだ作風と、熟達した実務派として高い評価を得た日本を代表する建築家。
1891年 佐賀県生まれ
1910年 八幡製鐵所入社
1913年 早稲田大学理工科電気工学科入学
1915年 早稲田大学建築学科へ転学
1918年 渡辺節建築事務所入社
1925年 ダイビル本館
1928年 日本基督教団南大阪教会塔屋
1929年 村野建築事務所設立
1930年 欧米に遊学
1931年 綿業会館
1931年 森五商店東京支店
1932年 加能合同銀行本店
1935年 そごう百貨店大阪本店
1936年 大丸神戸店
1937年 宇部市渡辺翁記念館
1949年 村野・森建築事務所へ改組
1984年 11月26日 永眠
綿業会館(1931年竣工)
設計渡辺節
図面責任者村野藤吾
渡辺翁記念館の設計経緯
村野藤吾氏にとって渡辺翁記念館は「私の出世作」と語っています。
村野藤吾氏が設計することとなったきっかけは、当時建設中であった「十合百貨店」の鉄骨関係を請け負った松尾橋梁㈱の松尾社長が、記念事業委員会の一人俵田明沖ノ山炭鉱社長に村野藤吾氏を推薦したことが始まりでした。
そごう百貨店大阪本店
渡辺節建築事務所を辞し、2回目の海外建築視察から帰国した村野はそごう百貨店大阪本店をてがけた。3期にわたる工事を経て、1937年11月に竣工(主要部分の完成は1935年)。
十合百貨店としては社運を賭けた事業を当時まだ実績のなかった村野藤吾氏に依頼。隣地には老舗の大丸百貨店がヴォーリズ建築事務所の設計によって華麗なゴシック様式の店舗を完成させており、責務は重大であった。
村野藤吾氏は、縦縞のルーバーと日本で初のガラスブロックにより美しいファサードを見事に表現した。
そごう百貨店大阪本店(現存せず)
宇部市渡辺翁記念館の竣工は日中戦争の戦渦が迫る1937年4月、村野藤吾氏にとっては独立して8年目であった。以降、村野藤吾氏は1939~1953年までの間に宇部銀行、宇部興産事務所など宇部市の多数の建物に携わることとなりました。
後年、村野藤吾氏は俵田社長に「本当に忘れ難い恩人です」と感謝の言葉を述べています。
「様式の上にあれ」と説き、世界を「動きつつ見る」ことで独自の建築観を鍛えていた関西の気鋭の建築家と世界に伍する文化的工業都市の実現に向けて宇部を牽引していた実業家との出合いが、世界に開かれた宇部市民会館(渡辺翁記念会館)を生むことになりました。
宇部市渡辺翁記念館の特徴
ファサードを構成する3種の壁は、それぞれ異なる曲率でゆるやかに湾曲しています。その上に横長の窓が連なる様は、さながら客船の艦橋のようにも見えます。
一方で列柱が並ぶ基壇やシンメトリーな3層構成は、ギリシャ神話に通じる様式とモダニズム様式が共存しており、村野藤吾氏の「両義性」が見て取れます。
中央に膨らんで緩く弧を描いて立ち上がる2枚のスクリーンが外壁として重なり、さらにセットバックしながら、強い縦目地を刻まれた長楕円ヴォリュームがペイントハウスとしておかれ、正面中央には、水平の玄関キャノピーが突き出ています。垂直・水平要素の混在、2枚の外壁面のズレ、塩焼タイルのテカリと凹凸が対照的で静的な正面ファサードを押し広げつつも引き締め、動きと揺らぎを与えています。
昔ながらの劇場や宮殿といった建築とは違っており、華やかな装飾に目を奪われることもなく、大きな塊の感じで圧倒されることもない建物となっています。ただ長く続く2つの面があり、その効果を左右3本づつある6本の柱が高めてみせるように見せています。それによって揺るがない存在感と、使う人々が中心になる動きのある感覚を両立させています。
左右の柱の間が透明なゲートになっているみたいです。6本の柱は威圧的なものではなく、遠くからも建物があることを目立たせながら、人を迎え入れる気分を高めています。
外壁は塩焼きタイルで、色合いは村野藤吾氏が「土管の色」から発想したものでした。
タイルの一部が縦に並べて貼られて横縞模様になったり、ところどころリズミカルにとびたしており、遠目に見るのとは違う、色合いと陰影の変化が楽しめます。
なお当時のレンがは側壁に一部が残っているが、改修工事により類似色タイルで施工されています。
正面入り口左右のレリーフには、炭鉱の町宇部市を象徴し鉱夫が描かれています。
「鷲」をモチーフにした照明
玄関横のガラスブロック壁
渡辺翁記念会館に先立って、村野藤吾氏は欧米視察でガラスブロックの活用に刺激を受けていた。すでに「キャバレー赤玉」のファサードにてガラスブロックの大規模使用を試みていたが、渡辺翁記念会館では、都市の顔となる公共的なファサードに相応しく多角的に用いられることとなった。
村野藤吾と宇部市渡辺翁記念館
村野藤吾氏は、様式にとらわれることを否定し、モダニズムにも批判的でした。しかし、宇部市渡辺翁記念館では随所に当時の時代背景やロシア構成主義、ル・コルビュジエなどのモダニズムを随所に取り入れ、自分なりに咀嚼して村野独自の建築スタイルを確立することに成功しています。
宇部市渡辺翁記念館は、表現派の系譜をひくモダニズム建築の代表作であるとともに、日本近代建築の一つの到達点を示す作品となりました。
建築史家の藤森照信氏は、「やさしさと力強さ、親近感と記念碑性、こうした相反する性格をこれほどみごとに一致させた建物は他にない。村野の数多い名作のなかでも名作中の名作といってよい」と語っています。
宇部市渡辺翁記念会館は1937年に建築され3度の大改修を経ているものの、竣工当時の大部分が、保存され現在も多目的ホールとして大切に使用されています。