法隆寺宝物館
明治政府の神仏分離令(1863年)をきっかけに、全国各地で仏教寺院を襲い、寺院にまつわる様々なものを破壊する廃仏毀釈運動が行われるようになりました。1878年(明治11年)、廃仏毀釈で困窮していた法隆寺は皇室が一万円を下賜する見返りに、法隆寺から皇室に約300点の宝物が献納されました。第二次世界大戦後にこれらの宝物は国有となり、東京国立博物館が所蔵。1964年にそれらを保管・公開する目的で東京国立博物館法隆寺宝物館に収められました。
東京国立博物館
法隆寺宝物館建て替え
初代法隆寺宝物館は文化財保存を目的としていたため、2階建ての宝物館は展示館と収蔵庫を兼ねた建物であり、全ての展示は2階で行われていました。また、文化財保全のために毎週1回、木曜日のみの開館とされ、木曜日であっても雨天の日は閉館とされていたため、公開日の増加を求める声が高まり1998年に保存と公開を目的とした建物として建て替えられました。
谷口吉生による法隆寺宝物館
コンセプト
法隆寺宝物館設計は、収蔵作品の8割が国宝および重要文化財であるとともに、優れた芸術作品であり、極めて高い保存環境の中で永久保存と公開展示という二律背反する条件を同時に達成することが求められた。また、作品の存在感や美しさを最大限に引き出すための照明、展示ケースの検討を含めた展示室空間の創出する必要もありました。
崇高な蔵物に対する畏敬の念と周辺の自然を十分に尊重する方針によって、現在の東京には貴重な存在となってしまった静寂や秩序や品格のある環境をこの場所に実現することをめざしたと谷口吉生氏は語っています。
建物の外観は、箱型に四角くフレームする「門構え」と呼ばれる手法が用いられています。この手法によって、簡素で抽象的な表現でありながら、建物の奥行きを与え、庭園の中に置かれたひとつの彫刻のようになっています。その美しく静かな佇まいが訪問する人々の心を捉えています。
そして、抽象性を保ちながら、ある種の日本的空間に接近するための試みとして、建物へのアプローチを変化させ、正面外観の構成の非対称性を見せ、格子の縦線を際立たせています。
建物を正面にして一度曲がるアプローチは、日本の神社でも多く見られる手法。最初に大きく見えた正面のステンレスフレームとガラス壁は一度視界から外れ、入口に近づくとガラスの奥にライムストーンの石壁が見えてくるようになっています。
入口は庇とは対照的に高さを2m程とかなり低く抑えられており、建物の境界を意識づけることで、崇高な収蔵品に対し襟を正す気持ちを表出させています。
エントランスホール
エントランスに置かれているマリオベリーニ の椅子
展示室は、収蔵品保護を最優先とした堅牢で高強度コンクリートの壁に囲われた部屋となっており、外光を遮断した空間となっています。これは、ガラスによって覆われた明るいエントランスホールと対照的な空間構成となっています。
展示室内に入ると、グラスファイバーによる微妙な光環境の設定により外から見えるより室内は暗くなっています。それは、余計な光を排除し、光が展示物それぞれの作品に柔らかで、鮮明に作品の魅力を最大限にするために照らしているからです。また、作品は透過性の高い免震ガラスにより保護されており、永久保存と公開展示という二律背反する条件を達成させています。
ル・コルビュジエの椅子でくつろぐ人々
薄暗い展示室で見た「四十八体仏」と言われる小金胴仏や寺院の荘厳具である金銅製の「灌頂幡」を始めとする飛鳥、奈良時代のいにしえの貴重な文化財を見て、神聖な気持ちになった後、ル・コルビュジエの椅子に座り、ステンレスフレームの間から垣間見える上野の森は、現実に戻ってくるとともに、品格のある静かな穏やかさを感じることができ、鑑賞の余韻に浸ることができます。
谷口吉生の美術館建築
法隆寺宝物館は、上野の森の美しい周辺環境と広々とした水盤に四角い箱型の建物は精緻なデザインと単純化された空間となっています。それは、谷口吉生氏が目指した「静けさの創造」であり、喧噪な東京にあって、静かに自分自身の基準によって作品の鑑賞ができる環境となっています。